実写版進撃の巨人のキャラクターとストーリーを原作と比較してみた!

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実写版「進撃の巨人」のキャスティングをみていると気になるのが、原作にはない「二つ名」です。例えば、「エレン・イェーガー ―『自由』を求めるもの―」とかね。中には「それって誰!?」「あいつそんなキャラだったっけ!?」というようなだいぶ面白い感じのものもあるので、原作のキャラクターと比較しつつ、くそ真面目に考察してみました。一部、原作のネタバレがあるので未読の方は注意です。

原作といえば、8月9日に最新刊の17巻が発売されましたね!18巻の発売日や17巻の特典(関西弁版第一巻と方言クリアしおりが面白すぎます)についてこちらの記事にまとめましたので、ぜひどうぞ!

進撃の巨人実写版

出典:naverまとめ

もくじ

【考察】キャラクターの二つ名を原作と比較してみた

エレン(三浦春馬)
―「自由」を求める者―

最初は主人公のエレンから!確かにエレンは原作でも「自由」を求めていますよね。でも、ちょっと原作と違うなと思うのは、エレンを表現するのにまず「自由」を持ってくること。

というのは、原作のエレンというキャラクターで強調されているのは、「巨人を駆逐する」という狂気にも近いようなその強靭な意志です。「自由になって外の世界をみたい」ということは原作の序盤にほのぼのとしたエピソードとして挟まれますが、壁が破壊され母親が巨人に食われた後は、そのような純粋で青々しい望みがエレンの口から語られることはほとんどありません。それよりも、巨人に対する憎しみ、巨人を駆逐するという破壊的な意志の方がキャラクターの全面に出ていきます。

ということから考えると、実写版のエレンの方が、個人的な夢や理想を捨てていないかんじのキャラクターになっているのかな、とも思います。普通の弱っちい一般人なのに地獄に突き落とされるんだ、というような試写会の感想もありますが、その中でも、原作のエレンのように「狂気」に身を委ねることはないのかも、と。(全部で何体いるかもわからない巨人を「駆逐」しようと思うというのはかなりの部分狂気が混じっていいると思います。)

とはいえ、ここでいう自由は、やはりカッコ付きの「自由」で、一昔前によくあったような「オレは自由に生きたいんだ!」といって実家を飛び出す少年のような生易しい自己満足的な自由ではないのでしょう。単に「好きにどこにでも行ける自由」というだけの当たり前の自由です。でも、その当たり前が当たり前でなくなったときに、それでもその「不可能な当たり前」を獲得したいんだ!と思える想像力は本当に大切なものですね。

シキシマ(長谷川博己)※オリジナルキャラクター
―人類「最強」の男―

「兵士」と「男」の比較

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話題のシキシマは言うまでもなく原作のリヴァイに対応するキャラクターですよね。ただリヴァイの場合は、「人類最強の兵士」が二つ名ですが、シキシマの場合は「兵士」ではなく「男」になっていますね。小さな違いに見えますが、ニュアンスはかなり異なります。おそらくリヴァイよりもわかりやすく男気のあるキャラクター造形になっているのかなと思います。そして、わかりやすくヒーローなのでしょう。

「兵士」という語感についてもっと考察すると、ちょっとずれますが、「進撃の巨人」の原作では壁内部側の「兵士」とライナーやベルトルトなど巨人側の「戦士」が対照されてますよね。この対照はとても面白いです。

まず「兵士」は、基本的に国家に属するものです。国家のために、兵隊という集団として、上意下達の命令系統に絶対服従で戦うのが「兵士」です。それに対して、「戦士」はもっと前近代的な神話やファンタジーの香りがします。「戦士」には兵隊にあるような命令系統はそぐいません。自分のために、あるいは、何かの理想や大義のために、個々人で戦うのが「戦士」でしょう。

例えば、ドラゴンボールの悟空やベジータは「戦士」ということはできますが、まったく「兵士」ではありませんね。少年漫画やハリウッド映画に出てくるヒーローは、「戦士」です。キャラクター属性としての「兵士」には、私を滅して国家機関に身を捧げる悲哀がどうしてもつきまといます。国家に背いても「戦士」であることはできますが、「兵士」であることはできません。

ましてや、「兵士」と「男」を比べたらニュアンスはまったく違います。「兵士」はある意味とても公務員的なものであるのに対して、「男」というのは生々しくヒロイックです。「兵士」には感情もドラマもなく、どこまでいっても現実的な戦略上のコマであるいうかんじですが、「男」には感情はもちろん、血も汗も涙の悲喜劇ドラマも十分にありえます。まさに週刊少年ジャンプ的な少年マンガの世界ですね!

人類「最強」とカッコつきの理由は?

これもまた細かい話になりますが、原作のリヴァイの場合は単にさらっと「人類最強の…」というだけですが、シキシマには「人類『最強』の…」というように最強にカッコがついています。これはそこに何か意味を込めたいということの印ですね。

まず原作でのリヴァイの「人類最強の兵士」という二つ名の取り扱われ方ですが、これは本当に問答無用でリヴァイの最強っぷりをあらわすのに使われています。そして実際リヴァイはとてもとても強いです。女型の巨人も一人でズタズタにできるほどです。そのように一人だけ人間離れして強くても、アッカーマンの血という理由付けがあるので物語は破綻しません。

しかし実写のシキシマの方には、「人類『最強』」というように「最強」にカッコがついています。完全に推測ですが、原作のリヴァイほど圧倒的に最強ではないのかなと。つまり、留保としてのカッコです。「一応最強は最強だけど…」という留保なのかなと。

で、この留保付きの「最強」と先ほどのヒロイックな「男」を組み合わせると、シキシマはおそらくリヴァイよりもだいぶと人間らしいキャラクター造形になっているのではないかと推測されます。

ミカサ(水原希子)
―戦場を舞う女神―

ミカサは女神じゃない?

ミカサの「戦場を舞う女神」という二つ名は原作とはだいぶニュアンスが違うなという印象です。まず「女神」という言葉から、一般的に連想される肯定的なイメージは、だいたいこのようなかんじでしょうか。

  1. 天使のように無垢で慈悲深い。(キリスト教の聖母マリアのイメージ)
  2. 美しく人智を超えた知恵と力がある。(ギリシャ神話の知恵と戦いの女神アテナのイメージ)

まず、この1の方に、原作のミカサは徹底して当てはまりません。どちらかというと、仲間に「神」「女神」などと思われていた清く優しいクリスタの方が合うのかなと。まぁクリスタの「女神」っぽさも、単なる哀しい猫かぶりだったと後で判明しますが。ともあれ、ミカサの方にもどると、彼女は無垢ではないし、慈悲深くもありません。理由は2つ。

  • 幼い頃に目の前で両親を惨殺されている。
  • 更にその後殺人を犯している。

この上で無垢で慈悲深くあることは人間には不可能なんじゃないかなぁ。実際、原作でも彼女は殺人を行うことに対する抵抗感はないようです。

2の方の「知恵と戦いの女神」は、まだ原作のミカサにも見出すことができるかもしれません。原作の序盤で、危機的な状況にあっても、言葉足らずながらに仲間を鼓舞して、巨人に立ち向かうような場面も設定されていましたよね。

ただ、原作のミカサにはおそらく神がかった「知恵」はあまりないのです。割と脳筋的な性格設定に加え、彼女には、幼い時の殺人の場に一緒に居合わせたエレンに対する共犯者的、共依存的な異常な執着があって、それが賢明な判断の妨げになるときが往々にしてあります。その意味でとても「人間」らしく、神々しい知恵の光はありません。

むしろ原作のミカサには、上で挙げた2つの女神ではなく、他の女神の形態、例えばインドの「破壊と殺戮の女神カーリー」などのイメージの方が似合う気がします。要は筋肉系ヤンデレ女子というかんじなんですよね。

というわけで、「戦場を舞う女神」という二つ名を冠された実写版のミカサは、きっと原作のミカサに比べて無垢さを残していて、両親の惨殺と殺人のトラウマから来るような陰鬱さはなくなっているんじゃないかなと。普通の少女が女神に脱皮するというようなかんじのストーリー展開なのでしょうか。

【付記:原作のエレンとミカサとアルミンて実はすごく悲惨な境遇の孤児だよね】

そういえば、少し話はずれますが、原作のエレン、ミカサ、アルミンは、結構悲惨な境遇の「孤児」ですよね。エレンは父親は行方不明(というか実は自分が食っていた)、母親は眼前で巨人に食われました。ミカサも目の前で両親が惨殺されましたし、アルミンも両親を早くに亡くし、懐いていた祖父も政府の口減らし政策でむざむざ巨人に食われました。

これは本当にトラウマものですよ!原作の諫山創氏も、どこかで「読者のトラウマになるような話を書きたい」というようなことを言ってらしたような記憶がありますが、確かにトラウマ。。

で、実写版と原作を比べる記事の多くでは、「原作のわかりやすくヒーローでかっこいいエレンとミカサ」に対して、「実写版の弱っちくて割と一般人なエレンとミカサ」を対比させた感想がでています。しかし上記のような原作の設定を鑑みると、原作のエレンとミカサも全く明るく健やかなヒーローではないですよね。エレンを突き動かすのは深い暗い復讐の念でしょうし、ミカサにもエレンを守るという執念しかありません。

そこには、例えばワンピースのルフィのような「海賊王になる」という明るい夢や、ドラゴンボールの悟空のような「強くなりたい」という前向きな本能もありません。原作のエレンはトラウマに突き動かされ、それゆえに恐れは克服できて強くなれても、「帰るべき暖かい家」を持たない悲しいヒーローです。そう思うと、読者が原作のエレンやミカサにはなかなか自己投影できないのも無理はなくて、むしろジャンとかサシャとかそのあたりの脇役の方が自己投影しやすいのかなと。

まぁ、ワンピースやドラゴンボールとの比較について付け加えると、ワンピースやドラゴンボールはメインとなる魅力的なキャラクターの情熱や行動が推進力となって物語が進んでいくタイプなのに対して、進撃の巨人は先に世界観やストーリの枠組みがあって、その上で各キャラクターがそのシナリオを淡々と演じさせられていくタイプの物語です。ですので一概に同じ土俵で主人公のヒーローとしてのあり方を比べることはできないのかなとは思いますが。

【付記2:進撃の巨人は神話?ゆえに二次創作を生みやすい?】

そこから進撃の巨人の物語としてのあり方をもうちょっと考えてみると、結構古代の神話の構成にも似ているところがあるなと思います。どこが?っていうことになりますが、例えば、

  • 世界観とストーリーありきでキャラクターが動いていく。(神話の多くでは、個人にではなく、より大きな世界の動きそのものに物語がフォーカスされます。進撃の巨人でも、著者の諫山創氏が「まずは描きたいストーリーがあって、その上で必要なキャラクターを創った」というようなことをどこかで言ってらっしゃたような。)
  • 人間がばんばん死ぬ。人の死がドラマチックでない。(神話でも人が軽く死にます。生きると死ぬはまさに同じことであるかのように。朝ご飯を食べるように人が死にます。旧約聖書の神なんてそれこそ人殺し大王ですし、古事記なんかも大概です。進撃の巨人の方は、言わずもがなですね。。)
  • 個々人の喜怒哀楽の人間ドラマにではなく、「種」の方が大きなテーマとなる。(例えば旧約聖書の「ノアの箱舟」の話などもそんなかんじですよね。進撃の巨人も、まさに「人間」と「巨人」という「種」同士のドラマが軸になっています。登場人物のの恋愛話や感情のもつれ合う人間ドラマなどはほぼ皆無ですし。)
  • それでありながら、要所要所に魅力的なキャラクターがいる。(神話に出てくる「人間」は十把一絡げの鰯のような存在でしかないことがほとんどですが、一方で神話の「神々」は皆非常に魅力的です。古事記のスサノオやアマテラスなど、ギリシャ神話のゼウスをはじめとした人間臭い神々、北欧神話のロキやオーディンなど、新約聖書(聖書を神話と呼ぶことに抵抗がある方もいらっしゃるかもしれませんが…)のイエスやマリア、などなど枚挙にいとまがありません。進撃の巨人でも、それこそ鰯のように殺されていく普通の人々の中にあって、エレンやミカサ、リヴァイなどの常人離れした主要キャラクターはそれぞれに個性的で魅力があります。)

というわけで、進撃の巨人には世界中の古い神話と似たような特徴が結構あります。

そして、唐突に聞こえるかもですが、進撃の巨人はかなり二次創作も盛んですよね。これも、実はかなり神話にも通じると思います。だって、旧約新約聖書は、ヨーロッパの中世近世近代を通して常に画家たちのインスピレーションの源泉でしたし、ルネサンス以降はギリシャ神話やローマ神話をモチーフにした絵画も多く描かれました。同様に北欧神話も、例えば音楽の方でワーグナーにインスピレーションを与えています。「ワルキューレの騎行」などは有名ですよね。(こち亀のアニメで爆竜大佐が登場するときに流されていた気がします。)更にインドなどでは、シヴァやガネーシャなどのヒンドゥー教の神様達は日本での芸能人のような扱いをされていて、神様のブロマイドが街頭で庶民に大人気なほどです。

まぁ、「宗教や神話をモチーフにした芸術」とマンガの二次創作を一緒にしたら不謹慎だと怒られそうな気もしますが、でもたぶん根っこのところのパッションは結構通じてるんじゃないかなぁと勝手に想像しています。恋に落ちた人の肖像画を描きたくなるような情熱というか。ある意味、神話も非リアルのバーチャル「二次」ですしね。

ともあれ、神話や進撃の巨人から二次創作が盛んに起こる物語の条件を考えてみると、

  • 主要なキャラクターが個性的で魅力的。
  • 世界観とストーリーの枠組みがしっかり構築されている。
  • キャラクター同士の喜怒哀楽すったもんだの人間ドラマは最小限になっている。

というようなかんじであることが見えてきて、面白いですね!魅力的なキャラクターとしっかりした世界観があり、かつ、本編内ではキャラクター同士の人間ドラマがあまりない、という条件が整うと、いいかんじに妄想が膨らんで楽しくなるのでしょう。

(参考記事:実写版進撃の巨人の感想は?試写会の評判と原作と比較して考察してみた

アルミン(本郷奏多)
―心優しき賢者―

「優しい」と「臆病」は違う?

この「心優しき賢者」は原作のアルミンと大違いですね!というのは、原作のアルミンは(特に最初の頃は)臆病で非力ではあっても、決して優しくはないからです。例えば、

  • エルヴィンの「何かを捨てなければ何かを得ることはできない」という酷薄な考え方に共鳴しているフシがある。
  • ベルトルトとライナーに残酷な嘘をつく。(「アニはずっと拷問されてるよ」というような)
  • エレンに「アルミンが陰湿で姑息なこと考えるのが得意なのは昔からだ」とか言われる。
  • ジャンが人殺しを躊躇した場面でも、代わりにきっちり殺せている。

などなど。原作のアルミンは臆病なときはあっても、まったく優しくなんてないです。

たぶん、「臆病さ」と「優しさ」って、ときに混同されがちなんですよね。外からみている分には、臆病な人は優しく見えがちだしし、優しい人はときに臆病そうに見えるものです。でも実際には、優しくありながらも勇敢であることもできるし、臆病でありながら残酷になることはできます。たぶん原作のアルミンは、それなりに勇敢でありながら残酷にもなれるキャラクター造形なんじゃないかなと。

一方、実写版の方のアルミンは「心優しき」となっているわけです。となると、原作のアルミンの優しそうな外見の裏にあるえげつなさは、実写版の方ではあまり表現されないのではないかな?と思います。

「賢さ」か?「狡さ」か?

実写版のアルミンは「賢者」となっていますね。これも原作とは微妙にニュアンスが違うな、と。

というのも、「賢者」というのは文字通り「賢い」人のこと。「賢い」とは、ある程度年季を経て酸いも甘いも噛み分けた上で極端に走らない中庸な判断ができる、というようなかんじだと思います。ですので、原作でいうとピクシス指令などに当てはまる形容詞かなと。英語でいうと「wise」です。ロード・オブ・ザ・リングのガンダルフや、ハリーポッターのダンブルドアのような。

一方で、原作のアルミンは、どちらかというと「狡い」かんじです。これは弱いものが強いものを出し抜くための狡さです。キツネのような。必要とあれば酷い嘘もつくし、姑息で陰湿な作戦もたてるし、極端なことをして犠牲を出すことも厭いません。英語で言うと「clever」ですよね。そういえば昔、シャ乱Qに「ズルい女」という歌がありましたね。

というわけで、実写版のアルミンは、原作のアルミンとは一見似ているようで実は似ても似つかないかんじなんじゃないかなと。ま、全体のストーリー構成が違えば、各キャラクターに求められる性格設定も異なってくるのは当然ですし、それはそれで面白そうです。

ジャン(三浦貴大)
―反逆の刃―

何に「反逆」するのか?

ジャンの「反逆の刃」は意外に違和感がないですね。でもたぶん、原作と実写版では「反逆」する相手が違うのかなと思います。

まずは原作から。原作のジャンは一見、別に何にも反逆していません。最初は憲兵団志望だったくらいで、むしろ日和見楽ちん大好きの権力追従派という設定でした。ただ、たぶん原作のジャンも反逆しています。何に?自分自身に対して、です。

親友のマルコが人知れず一人で巨人に食われて死んだという現実に直面したジャンは、その後、憲兵団志望を一転して調査兵団に入団します。頭では憲兵団に入ったほうがいいと分かっているのに、良心は調査兵団に入れと言う。ここでの「頭」は、「社会通念、他人から与えられる名誉や安楽」と言い換えることができます。

ですので、ここでジャンは社会通念に「反逆」して調査兵団に入ったのだと言える気がします。これはなかなか大変な選択ですよ!例えば、安全で偉ぶれる官僚になることを辞めて、危険な紛争地域での無名のNGO活動に飛び込むようなものです。

特に、ジャンは、孤児であるエレンやミカサ、アルミンと違って、帰ったらちゃんと待っていてくれる母親や暖かい家庭があるのです。それにも関わらず調査兵団を選ぶというジャンのキャラクター造形は、エレンなどとはまた違った意味でリアルで悲壮です。

一方で、実写の方は、原作のようにややこしい心理的な「反逆」ではなくて、わかりやすく不良っぽいかんじでの「反逆」なのかなと思います。それは「反逆の刃」というように「刃」が後についていることからも想像できます。「刃」は具体的で分かりやすい人と戦うための武器です。そのような戦闘的な具体性が二つ名に付加されているということは、実写版のジャンの性格もわかりやすく跳ねっ返りの反骨精神野郎なんだろうなぁと想像できます。

サシャ(桜庭ななみ)
―飢えた狙撃手―

このサシャのはそのまんますぎて面白いですよね。きっとギャグですよね。

まさか、本当に血に飢えた猛禽類のように巨人をざっくざくと狩り殺す、というようなことではないと思います。たぶん、ネタなんじゃないかなと。

個人的にこの中では一番好きな二つ名です。笑えます。飢えたは飢えたでも、血に飢えてるんじゃなくて、単に腹が減ってるだけっていう。いや、空腹は笑えませんよ!辛いです!

ハンジ(石原さとみ)
―暴走する無邪気―

ハンジが主人公のスピンオフドラマが製作されたりなどなど、話題の石原さとみさんのハンジですね!予告編などを見ると、多分一番原作に近いキャラクター造形になっていそうですよね。

でも、やっぱり違いを感じるのが「無邪気」という表現です。原作のハンジは、「無邪気」とは違いますね。どちらかというと、「頭が切れるサディスティック猪突猛進マッドサイエンティスト」というかんじです。その周りを顧みない「猪突猛進」ぷりが、「無邪気」に見えるともとれますが、それは周りを気にせず自分の情熱に正直であるという点においてだけなのかなと。

例えば、原作のハンジは楽しげに拷問をするシーンもあったりで、邪気ありありです。何より、物事の裏の裏まで考えることのできる非常に頭の切れるキャラクターとして造られています。物事の裏の裏まで読める人間が無邪気であるはずがないです。

無邪気は、「innocent」であり、「無垢」にも通じる言葉です。「純真無垢な少女」などと言いますが、それはときに「愚かさ」にも通じる表現です。しかし原作のハンジは決して愚かな人間には描かれていません。むしろ次期調査兵団団長を任されるくらいに、非常に優秀な戦略家として描かれます。

とすると、実写版のハンジは、原作のハンジに比べて軽く明るいかんじになるのかなと。石原さとみさんも可愛らしいですしね!

サンナギ(松尾諭) ※オリジナルキャラクター
―慈愛深き豪傑―

このサンナギはたぶん、原作のライナーにあたるんじゃないかなと。原作のキャラクターのうち、名前があまりにドイツっぽいキャラクターはハイブリッド的なオリジナルキャラクターにしたという話がありましたし。

ライナーは実は鋼鉄の巨人でしたが、原作では一応仲間思いで頼りになるアニキ的な位置づけのキャラクターでしたよね。

「慈愛深き」とか言っているあたり、たぶん、実写版では鋼鉄の巨人にはなったりしないのかな?とは思いますが。

フクシ(渡部秀) ※オリジナルキャラクター
―悲しみの守護星―

このフクシもサンナギと同じかんじで、原作のベルトルトにあたるんでしょうね。

原作のベルトルトも、弱気で内気で、実力はあるのに自分を出せないちょっと女々しい奴でしたし。そういう弱さを「悲しみ」と言い換えることも可能でしょう。悲しみが積もり積もると、それが自分に向かって弱さとなって現れる場合と、それが外に向かって止まない怒りとなって現れる場合と、あるのかもしれませんね。

サンナギ=ライナー(?)の「豪傑」とフクシ=ベルトルト(?)の「守護星」というのも、攻と守の対比になっていてそれらしいです。しかし、「星」かぁ。ロマンチックですね。

ヒアナ(水崎綾女) ※オリジナルキャラクター
―勇猛なる母性―

このヒアナはたぶんユミルかな?という気がします。ユミルが母性というのも変ですが、ただ、原作の「イルゼの手帳」のエピソードで「ユミルの民」という言葉が出てきましたよね。そして、その言葉をしゃべった巨人は、イルゼの死体をユミルだと思って神のように崇めていました。

というところから鑑みるに、おそらくユミルは人柱的な形で巨人たちに崇められる存在になったのではないかなと。これも神話によくあるモチーフですよね。死ぬことで豊穣をもたらす女神です。大地母神のイメージにもつながります。

というところから、一見母性とは無縁のように見える男勝りなキャラクター造形をされたユミルですが、意外にヒアナの「勇猛なる母性」にも通じるのかなと思います。「勇猛なる」は、巨人化したときのユミルにそのまま当てはまる形容詞ですしね。

リル(武田梨奈) ※オリジナルキャラクター
―愛に生きる本能―

このリルはたぶんクリスタでしょう。「愛」といえば、「女神」のクリスタしかないかんじです。

ただ皮肉にも、原作のクリスタの「愛」は、本能なんかではなく仮面だったわけですが。

でも、現実の生活では、自分の「愛」が本能なのか仮面なのかなんて、わからなくなるときもよくありますよね。本能半分、仮面半分、くらいのところでしょうか。とはいえ仮面ではあっても、そういう仮面を被ろうとする心がけ自体が「愛」とも言えるのかもしれないなぁと考えたりもします。(しかしそれは相手が大人のときだけの話で、相手が子どものときは別ですね。100%本能で愛するのが一番だなと思います。)

ソウダ 【ピエール瀧】 ※オリジナルキャラクター
―嘆きの先導者―

これはわかりにくいですね。だって、そもそも原作には、嘆いてる人なんていませんよね(少なくともメインのキャラクターには)。そう思うと恐ろしい原作です。普通、あの阿鼻叫喚の地獄を描いたら、嘆く人の一人や二人描きたくなるだろうと思うのですが、それが抑制されているんですもんね。

ともあれ「先導者」というからにはリーダー的な位置づけにあるキャラクターなのでしょう。とすると、、もはや完全に妄想の範囲ですが、調査兵団団長のエルヴィンには見出すことができない「嘆き」を背負ったキャラクターなのかもしれませんね。そもそも「嘆き」という情念自体が原作には目立って出てこないので、かなり実写版オリジナルの色彩が強いですね。

クバル(國村隼) ※オリジナルキャラクター
―「闇」を統べる者―

このクバルはおそらく、エルヴィンに対応するキャラクターなのでしょう。原作のエルヴィンは100人を超す兵士を作戦上の必要から故意に死なせても顔色一つ変えずに冷静に前に進んでいけるほど、酷薄な人間性と強烈な目的意識を持ったキャラクターになっています。この深く善悪が混淆した人間性は、まさにこの世の闇を見るようです。外見を考慮すると、エルヴィンにピクシスをちょっと足した感じですが。

人間の本質は「闇」だとも言えますよね。せっかくなので神話ネタですが、多くの神話では人間は原初の闇、カオスから生まれます。「闇」は豊かなる無意識であり、いつか還るべき母なる海です。(比喩ですよ。)

ともあれそういうロマンチックな話はわきにおいても、原作の方ではどうやら巨人側ではなく人間側の方に深い重い罪があるように描かれていますよね。とすると、このクバルの「闇」は人間の罪を象徴しているのかな、と考え(すぎる)こともできます。しかも、この闇はカッコつきの「闇」です。ただの「闇を統べる者」であれば、いかにもな悪役の大ボスですが、闇にカッコがついているのは、おそらく人間に関連する「闇」なのかなと。

 

…以上、長々と考察というか妄想をしてきましたが、どこが当たりでどこが外れか、映画の本編を観ながら確認するのが楽しみです!あ、そういえば、コニーとかマルコにあたるキャラクターはいませんでしたね。他のキャラクターとハイブリッドなかんじで混ざっているのかもしれません。

ちなみに、この進撃の巨人の実写版のロケ地は長崎県の軍艦島というところで行われました。こちらの記事に軍艦島の画像や行き方をまとめましたのでどうぞ!

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ではでは、今回もお付き合いいただき、ありがとうございました♪

今日も皆さまに何かいいことがありますように (^^)


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